【編集部より】
さる7月9日、東洋大学経営学部「経営監査論」の授業にて、産学協同推進特別教育の一環としての講演会「公認会計士監査の価値」が行われました。ゲストスピーカーはPricewaterhouseCoopers(PwC)Japanグループ前代表の木村浩一郎先生。大手法人トップを8年間務めた木村先生は、どんなきっかけで公認会計士を目指すことになったのでしょうか。また、業界のトレンドや受験生へ期待することについてはどうお考えなのでしょう。
講演会は木村先生のご希望により、東洋大学の山口峰男先生(東洋大学経営学部准教授・公認会計士)によるインタビュー形式にて行われたとのことです。講演内容について、会計人コースWeb読者の皆さんにとって参考になる部分があると思うので、一部抜粋の上、編集・再構成し記事としてお届けします。ぜひ、キャリアを考えるうえでのヒントを見つけてください!(全4回)
<第1回>公認会計士として38年のキャリア
<第2回>公認会計士になったきっかけ
<第3回>「MDM(マルチ・ディシプリナリー・モデル)」とは
<第4回>受験生へのメッセージ
話し手:木村浩一郎先生(公認会計士・PwC Japanグループ前代表)
聞き手:山口峰男先生(東洋大学経営学部准教授・公認会計士)
公認会計士としてのキャリア
山口先生
本講演会にお招きした木村先生は、1986年に青山監査法人(当時のプライスウォーターハウス(PW))に入所後、38年間公認会計士一筋で歩まれ、しかも法人トップまで務められたという素晴らしいキャリアを築かれています。
今年6月末にPwCをご退職されたというタイミングで、ご自身のキャリアを振り返り、どのように感じていらっしゃるのか、まずは率直なところをお聞かせいただけますでしょうか。
木村先生
大学4年生の時に公認会計士試験に受からず、その1年後に合格し、当時の青山監査法人(PW)に入ることになります。
1986年時点では、企業の財務諸表は連結会計ではなく、親会社単独の財務諸表だけが有価証券報告書として証券取引所などに提出されるものでした。連結財務諸表が出てきたのは、私が監査法人に入って少し経ってからで、最初は添付書類のような形だったのです。
そのような状況の中で、当時Big8の1つだったPWに入った理由としては、連結財務諸表の監査においてはPWが日本でNo.1のポジションにいたからです。
アメリカなどではすでに連結が当たり前になってきていたので、これからは連結の時代になるとわかっていました。たとえば、ホールディングカンパニー(持株会社)の財務諸表をみても、子会社への投資ばかりで中身がありません。それを監査してもあまり意味はなく、むしろグループ全体の実態を映し出す連結財務諸表の監査にこそ意味があると考えました。
山口先生
日本では連結財務諸表がまだ添付書類のような形だった中、どのように情報をキャッチアップされたのですか。
木村先生
日本に連結会計基準は当時まだないので、アメリカでどのようにしているかを一生懸命学びました。
日本の企業でもアメリカに上場している企業もあり、たとえばソニーは1960年に日本企業としてはじめてアメリカに上場しました。アメリカに上場するとなると、当然、連結財務諸表は必要で、監査は連結財務諸表でないと受け付けてもらえません。
アメリカ市場で認知度を上げ、製品を売っていくためには、連結財務諸表が必要です。そして、その監査は日本で行う必要がありました。
それができたのは、当時、外資系であったPwでした。実際に、PWに入ってから、私は6年間、日本で監査を行い、その後、1年間コンサルティングに出向しました。その後、アメリカのシカゴに4年間駐在し、アメリカの監査を実践で学びました。
山口先生
振り返って、ご自身はどのような監査人だったと思われますか。
木村先生
自分でいうのはおこがましいですが、私はわりと良い監査人であったと思います。連結財務諸表を先取りしていたということもありますが、アメリカにいる頃から、日本の監査法人はアメリカに比べるとどこか弱いように感じていました。
山口先生
どういった点でそのように感じられたのでしょうか。
木村先生
当時、アメリカの監査ではパートナーが監査先の役員や社長に対して話す内容としては、経営に関することがほとんどでした。
「この企業はどこで生き残ろうとしているのか」、「どのような成長戦略を持っているのか」を聞き、その内容について「業界の動向はこのようになっているが大丈夫なのか」という会話がされていました。
一方で、日本の監査では、会計の細かい部分を気にしていました。
「連結財務諸表のこの表示はおかしいのではないか」、「この会計処理は本当にこれで合っているのか」ということを監査先の社長に対して話していました。
監査先の社長は会計のプロではありませんので、そのような話をされたところでイマイチ話が噛み合いません。しかし、当時の日本の監査法人は「それが我々のミッションである」として一生懸命に会計の話をしていました。
確かに、本来のミッションはそれで果たしているのかもしれませんが、存在感や存在意義としては小さなものに私には見えました。
若かった当時の私は、機会がある毎に上の人に自分の意見をいうようになり、そうこうすると、「それなら自分でやれ」とリーダーの役割もだんだん任されるようになっていったのです。
そうして出来上がった私の仕事としては、PwC Japanグループ全体のトップになったので、約20%が監査、残りの約80%は非監査ビジネスになります。
これら全体のビジネスをどのように組み立て、どのように成長させ、PwC Japanに所属する11,500人がやりがいをもって、日々プロフェッショナルとして成長できるか。プロフェッショナルとしてクライアントや社会に対して自分の力を発揮することができる環境をどのように整えるか、という仕事に至りました。
山口先生
当初イメージされていたキャリアと比べていかがでしたか。
木村先生
「連結財務諸表の監査ができる公認会計士」を目指してPWに入った当初からはだいぶ変遷しています。
ただ振り返ってみれば、アメリカでは監査責任者であるパートナーが監査先と経営戦略に関する議論ができ、経営戦略に関する知識がそこで磨かれるので、自分の法人や組織の経営においてもしっかりとした手腕を発揮できると思います。
私の場合、キャリアの最後のほうは、監査から離れて経営に専念しましたが、監査とは全然違うところにいるというわけではなく、自分が培ってきたものが結果的にそのような形になっただけであり、「社会における信頼」という点は最初から変わりません。
社会の中で信頼が揺らぐということはよくないと思います。それは無駄が多く、誰も幸せになりません。それに対して、自分一人でできることはすごく小さいですが、組織と一緒にできることはとても大きいです。
そのような部分で、経営というところまで突き詰めることができたのは、当初の意気込みからすると少しズレてはいますが、私としては非常に満足度の高いキャリアだったと感じています。
山口先生
貴重なお話ありがとうございました。
次回は、木村先生が公認会計士を目指したきっかけをお聞きします。
(第2回へつづく)
〈PROFILE〉
◆木村 浩一郎
公認会計士
1963年生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。1986年青山監査法人入所。プライスウォーターハウス米国法人シカゴ事務所への出向を経て、1997年に青山監査法人の社員、さらに2000年には中央青山監査法人の代表社員に就任。2006年に設立されたあらた監査法人(当時)では、システム・プロセス・アシュアランス部部長を経て、2009年に執行役(アシュアランス担当)に就任し、PwC Global Assurance Leadership Teamに参加。2012年6月から、あらた監査法人(当時)の代表執行役。2016年7月よりPwC Japanグループ代表、2019年7月よりPwCアジアパシフィック バイスチェアマン。2024年6月退任。現在は、公認会計士として、日本の国際化に貢献すべく幅広い活躍をしている。
◆山口峰男
東洋大学経営学部准教授・公認会計士
1966年生まれ。上智大学法学部国際関係法学科卒業。London School of Economics and Political Science修士課程修了(Law and Accounting, 日本公認会計士協会国際会計人養成奨学金)。平成改元とともに銀行員のキャリアをスタート、その後の「失われた30年」を金融、会計、監査の実務界で過ごす。2度のキャリアブレイク(公認会計士試験受験および英国留学)が転機となり、本年4月より大学および大学院にて「監査論」の専任教員として研究および教育に従事している。木村先生は中学校および高等学校の先輩。